第22章 電子線トモグラフィ
試料を ±70° しか傾けられない。フーリエ空間の欠損くさび(missing wedge)と伸長アーチファクトをシミュレーションで見る。
トモグラフィは医療の外でも活躍します。細胞の中の分子機械の立体構造を、壊さずナノメートルの分解能で見る ── 電子線トモグラフィ(electron tomography、クライオ ET)です。X 線の代わりに電子線を使い、透過電子顕微鏡で投影を撮ります。原理は CT と同じ、投影から立体を復元する逆問題。しかしこの世界には、CT にはない厳しい制約があります。試料を大きく傾けられないのです。第20章のトモシンセシスで見た限定角度が、ここでは 3 次元の missing wedge として立ちはだかります。
傾けられない試料
電子顕微鏡では、電子線は装置の中を上から下へ一定方向に進みます。被写体(CT なら患者、ここでは細胞の薄切片やタンパク質)を回すには、試料ホルダごと傾けます。ところがホルダを傾けていくと、やがて隣の構造や鏡筒に当たって、それ以上傾けられなくなります。実用上の限界は ±60〜70° 程度。CT が 180° 以上まわせたのに対し、電子線トモグラフィは 140° 分ほどしか撮れません。
電子線トモグラフィの傾斜シリーズ。電子線は上から一定方向に進み、試料を傾けながら投影を撮る。しかし試料ホルダは物理的に ±70° 程度までしか傾けられず、それ以上の角度は撮れない。
傾斜シリーズ(tilt series)と呼ばれるこの撮り方は、要するに限定角度トモグラフィです。第20章のトモシンセシスと本質は同じ ── 測れない角度がある。違いは、こちらが 3 次元の再構成で、欠損が立体的な「くさび」になる点です。
missing wedge
第4章の中心断面定理を、もう一度思い出してください。傾斜角 の投影は、フーリエ空間の角度 の中心面(2D なら中心線)を埋めます。試料を まで傾けられれば、フーリエ空間はその範囲だけ埋まり、残りの ── 電子線の方向まわり ── がくさび形に欠けます。これが missing wedge(欠損くさび)です。
missing wedge が伸長を生む。左(フーリエ空間): 傾斜 ±maxTilt が埋めるのは kx 軸まわりの帯で、上下(ky)に欠損くさびが残る。右(画像空間): 欠けた ky 高周波のぶん、点像が縦(電子線=奥行き)方向に伸びる。第20章の限定角度の 3D 版。
第20章のくさびが、立体になった
トモシンセシス(第20章)の深さぼけと、電子線トモグラフィの missing wedge は、まったく同じ現象です。測れない角度に対応するフーリエ空間の領域が欠け、その向きの高周波が失われ、その向きに構造が伸びる。違うのは次元だけで、2D の平面的なくさびが、3D では電子線方向を軸とする立体的なくさびになります。欠けたくさびの向き ── 電子線(奥行き)方向 ── に、あらゆる構造が引き伸ばされます。細胞小器官の膜が奥行きにぼやけ、上下の境界がはっきりしなくなる。これが電子線トモグラフィ像を読むときに最も注意すべきアーチファクトです。
シミュレーション:missing wedge と伸長
孤立した粒子(金コロイドを模したもの)を 2 次元フーリエ変換し、最大傾斜角で埋められない上下のくさびを 0 にしてから逆変換します。中央のパネルは、くさびが欠けた k 空間そのものです。最大傾斜角スライダーを下げると、欠損くさびが上下に広がり、それに応じて右の粒子が縦 ── 電子線=奥行き方向 ── に伸びていきます。 まで傾けられればくさびは消えて粒子は点に戻りますが、現実にはそこまで傾けられないので、伸長は必ず残ります。
真の粒子
k 空間(くさび欠損)
再構成
孤立粒子(金コロイド等を模す)を 2 次元フーリエ変換し、傾斜範囲 ±最大傾斜角 で埋められない上下のくさびを 0 にしてから逆変換する。中央の k 空間で、欠けたくさびが上下に広がる様子が見える。最大傾斜角を狭める(=くさびを広げる)ほど、右の粒子が縦(電子線=奥行き)方向に伸びる。これが missing wedge による伸長アーチファクトで、試料を ±90° 傾けられれば消える。
くさびをどう埋めるか
missing wedge は物理的な制約なので、測定だけでは消せません。そこで、これまでの章で学んだ「欠損を事前知識で埋める」技術が総動員されます。試料を 2 軸で傾けてくさびを錐状に縮める(dual-axis tomography)、全変動(第10章)やスパース性で滑らかさを仮定して埋める、多数の同種粒子を平均して欠損を補い合う(サブトモグラム平均法)、そして深層学習(第12章)で欠損の埋め方を学ぶ。CT で低線量やスパースビューに立ち向かった道具が、そのままナノの世界で使われています。測る対象も、スケールも、装置もまるで違うのに、逆問題としての戦い方は驚くほど同じです。
この章の要点
電子線トモグラフィは、電子線で細胞やタンパク質の立体構造をナノ分解能で見るトモグラフィです。試料ホルダが ±60〜70° までしか傾けられないため、フーリエ空間に missing wedge が残り、電子線(奥行き)方向に構造が伸びる伸長アーチファクトが生じます。これは第20章の限定角度・深さぼけの 3 次元版で、中心断面定理から同じように理解できます。欠損を埋めるには、2 軸傾斜・圧縮センシング・サブトモグラム平均・深層学習といった、この教材で学んだ技術がそのまま使われます。ここまでで、CT の線積分から始まった旅は、MRI のフーリエ計測、核医学の放射計測、限定角度、光音響の円弧、そして電子のナノトモグラフィまで来ました。測る物理は違っても、限られたデータから立体を復元するという逆問題の骨格は、ずっと同じでした。トモグラフィは、ひとつの数学の、実に多くの顔なのです。
参考文献
- Frank J (ed.). Electron Tomography: Methods for Three-Dimensional Visualization of Structures in the Cell, 2nd ed. Springer (2006).
- Lučić V, Rigort A, Baumeister W. Cryo-electron tomography: the challenge of doing structural biology in situ. Journal of Cell Biology 202, 407–419 (2013).
- Mastronarde DN. Dual-axis tomography: an approach with alignment methods that preserve resolution. Journal of Structural Biology 120, 343–352 (1997) — 2 軸傾斜による missing wedge の低減。